由緒
瓊々杵尊は日向国高千穂槵觸の峯に天降り給い、国内を巡覧し当地に至り、この地朝日の直刺す国夕日の日照る国也、これは何山の領域かと問われたところ、事勝国勝長狭(ことかつくにかつながさ)の領地と答えた。
瓊々杵尊は吾田長屋笠狭の御碕に至り天神地祗を祀った。のち成務天皇13年(西暦142年)武内宿祢が彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊・神日本磐余彦尊を併せ祀ったと古文書が伝えている。
奈古神社は古く権現と称され、その後神武天皇を宇佐八幡と崇めたことから奈古八幡宮の勅号を得、または奈古八幡三鎮宮とも、古来より吾田長屋という地名から長屋神社とも称し、南方・池内・上北方・下北方・花ヶ島・江平六カ村の産土神として崇敬された。
また奈古神社の宮の前に広がる土地なので、宮崎と地名がついたとも言われている。
領主伊東氏およびその家臣から厚く尊崇され、度々社領の寄進があり江戸初期には神領十石を有していた。
その後延岡藩内でも有数の神社として、毎年九月十五日の大祭には延岡藩代官が社参、のち藩主内藤氏の代参があり、これより内藤氏の祈願所となった。
明治四年奈古神社と改称、同年村社に列した。
境内には三千日垢離成就塔といわれる石碑が存在する。これは戦国期に都於郡城主伊東氏より奈古神社宮司へ嫁いだ女性が、夫の死後女体で神事をつかさどり、海水での水垢離(みずごり)を三千日行ったところ遂に胸毛を生じて男体のようになったという伝説によるものである。
また社殿後方にある前方後円墳は祭神瓊々杵尊の御陵と伝えられている。
御祭神
天津彦火火瓊瓊杵尊(あまつひこほほににぎのみこと)
彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)
神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)
本殿のほかに、末社八社が並存している。
奈古神社のはじまり
奈古神社の御創建年月日は不明ですが、成務天皇の御代13年(西暦142年)に武内宿祢が彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊・神日本磐余彦尊を併せ祀ったと古文書が伝えていますので、それ以前の御創建と言われています。
御神徳
豊作・厄祓い・家内安全・願い成就他